チャイカは右手に持った拳銃をディミトリに向けた。それは、元傭兵とは思えないお粗末な物だ。ディミトリなら銃を目の前に構えずに目算で撃ちまくる。一発でも当たれば御の字だからだ。 しかし、チャイカは手本取りに銃を構えようとした。ディミトリはすかさず拳銃を撃ち落とす。相手を撃つ時に銃を構える僅かな時間は命取りなのだ。床に転がる拳銃を呆気に取られて見つめるチャイカは、口の中で何かをゴニョゴニョ言っていた。『さてと、二人きりで話をしようじゃないか……』 ディミトリが流暢なロシア語で話し掛けた。チャイカは苦渋の表情を浮かべていた。『死ねよ、疫病神……』 しかし、チャイカは憎々しげに捨て台詞を言い放つと、手すりを乗り越えて海に飛び込んでいった。 チャイカは自分と同じくらいに、ディミトリは拷問が得意なのを知っているのだ。(え? お前は泳げなかったろう……) 唖然としたディミトリは直ぐにその事を思い出した。 直ぐに手すりの所に駆けつけたが、チャイカの姿はどこにも無かった。海面には波紋が広がっているだけだ。 チャイカは追い詰められて逃げていったのだ。『クソがっ!』 ディミトリは憮然としていた。後少しの所で獲物を逃してしまったのだ。悔しくて堪らないらしい。 彼はアカリに電話を掛けた。彼女は待っていたのか直ぐに出てくれた。『若森くん。 大丈夫?』「ああ、大丈夫……」『そう、良かった……』「お姉さんに変わってくれるかな?」『ええ』 電話をしながらもディミトリは海面から目を離さなかった。息継ぎしている所を狙いたかったのだ。 だが、チャイカは海面に出て来る様子は無い。彼も狙われていることを予期していたのであろう。 薄暗い海面ではこれ以上は無駄だと悟ったディミトリは引き上げることにした。「例のロシア人に逃げられてしまったよ……」『君のことを知っているようだったけど……』「誰かと間違えているんだろう」『……』 もちろん、ディミトリの嘘はアオイにはお見通しなのだろう。彼女は黙ってしまった。「俺の尻は白人のおっさんにとって好みのタイプなんだろうよ」『馬鹿……』 ディミトリは適当に茶化してみたが、余り効果はなかったようだ。却って怒らさせてしまった。 そこで、彼女に頼まれていた事を伝えた。「子供は一緒にいるから船の舷門まで車で迎えに来て欲しい」
ディミトリは部屋の中を物色しはじめた。シンイェンが子供なので興味を無くしたのであろう。 それよりも手がかりを探すことを優先したのだ。『お前の名前は?』『ワカモリ・タダヤス』『そう、タダヤスね……』 この部屋には目ぼしい物が無い事を悟ると出ていこうとした。『ふね おりる』『分かった』 ディミトリが言うとシンイェンは大人しく付いてきた。もっとも、ディミトリのシャツの裾を掴んだままだ。 もっとも、彼女には他の選択肢が無い。ここでディミトリに逸れると、嫌な思いをしなければならないと悟ったのだ。 彼女の今後はアオイと相談して決める事にした。警察に頼めない以上は密出国させる事になるが手立てが不明だ。 ディミトリは道すがら倒れている男たちの身体を調べ回った。武器や身分証を持っている袋に入れる為だ。 後でコイツラの背景を調べるのに必要だ。チャイカが逃げた以上は小さな手がかりでも欲しかったのだ。 チャイカの話から中国系の連中がクラックコアを施術したのは分かった。後はどうやったのかと戻れるのかが知りたかった。 それと自分の身体の在り処だ。(金を掻っ攫ったのなら元の身体に戻らないと楽しめないしな……) 自分を狙う理由が分かって心のモヤが晴れた気分だ。 次は中国系の連中をとっちめる必要がある。その為の下準備を始めるつもりだった。 シンイェンを連れて食堂に行くと全員机の下に潜っていた。銃撃戦が始まったので跳弾を避けるためだろう。 外国ではよく見る反応だ。 銃撃戦の中でポケーと突っ立ているのは日本人ぐらいだ。生活の中に銃が存在しないので仕方が無い面もある。『この中に船長は居るか?』 ディミトリが英語で尋ねると、一人の男が立ち上がった。他の者たちはディミトリを注視していた。 拳銃を腰の位置で構えたまま彼に向ける。銃に気が付いた船長は小さく手を上げた。『俺がそうだ』『密輸をやってた連中の仲間か?』 ディミトリは少しホッとした。密輸の仲間なら全員を殺るつもりだったからだ。憂いを残すのは後々トラブルになる。 だが、全員を殺るには弾数が少ないのが心配だったのだ。『俺は違う。 航海士が連中とつるんでいたんだよ』『そうか、あの連中は全員始末した』 ディミトリの言葉に食堂の船員たちはザワついた。 シンイェンはディミトリと船員たちを見比べていた。
車の中。 モロモフ号を下船したディミトリとシンイェンはアカリが運転する車に乗り込んだ。 見知らぬ二人に怯えているのか、シンイェンはディミトリのシャツを掴んだままだった。『ふたり なかま』『……』 ディミトリがそう言うと、シンイェンは二人に軽く会釈をした。「え、若森くんは中国語が出来るんだ」 アカリがビックリした様子で話し掛けてきた。彼女はディミトリの事をヤンチャ坊主だと思っていたのであろう。「簡単な単語を並べることしか出来ないけどね……」「それでも凄いよ。 私はアカリ。 宜しくね!」「私はアオイよ……」『林欣妍(リン・シン イェン)よ。 どうぞ宜しくお願いします』「彼女は宜しくと言っている」 スマートフォンの翻訳アプリを使えば、ある程度の意思疎通は可能だ。 だが、自分で喋ることが出来るのとは違う話だ。『ふたり しまい おまえ くらす』 そう言うとシンイェンは頷いていた。彼女たちが姉妹で、これからシンイェンの面倒を見てくれると理解したようだ。「これから彼女の面倒を見てやってくれ……」「え?」 アオイが戸惑ったような表情を見せた。どうやら助け出した後でどうするのかを考えていなかったようだ。「え…… って、お前が助けろと言うから助け出したんだじゃないか……」 困惑するアオイにディミトリが憮然として言った。 元々、助ける気など無かったので、彼女を故国に返す手立てなど考えてもいなかったのだ。 このまま押し付けられても子供の面倒など見ていられない。「それに中学生の小僧にどうしろと言うんだよ」「……」 都合の良い時には小僧の振りが出来る。中々、便利な立ち場だとディミトリは思っていた。「分かった…… とりあえずは私の部屋に連れて行く……」 アオイはディミトリの言うことも尤もだと思い、自分の家に連れて行くことにしたようだ。 シンイェンの方をちらりと見て、服を買ってあげないようと考えた。粗末な薄汚れたワンピースのままなのだ。「ああ、彼女の親の事や、拉致された経緯などを聞き出せば良い」 その上で、今後どうするか考えれば良いはずだ。 シンイェンの親が警察を頼りたければそうするし、そうでなければ違う方法で帰す手段を考える。「え? 親が警察を頼らない事ってあるの?」「犯罪組織同士のイザコザで誘拐されたって線も有るんだよ……」
アオイのマンション。 アオイは郊外のマンションを借りていたようだ。引っ越しを急に決めたので、不動産屋に選んでもらったらしい。 四人はひとまず部屋の中に入った。今後のことを話し合う為だ。「広くて明るい良い部屋だね」「ここしか開いていなかったのよ……」「3階建ての三階か……」 ベランダの窓から外を見ながらディミトリが呟いた。「ん? 部屋は良くないの?」「空き巣が一番狙いやすい部屋なんだよ」「そうなの?」「ああ、適度な高さだから住人が窓の鍵を掛けない事が多いせいなのさ」「君は何でも良く知っているのね……」「ネットで読んだだけで、全て知っているつもりのネット弁慶さ」 ディミトリはそう言いながら笑った。もちろん、押し込み強盗をした経験があるのは内緒だった。「んーーー、これが使えると思う……」 アカリが翻訳アプリを動作させてみた。携帯に向かって語りかけてアプリ側で翻訳して音声にしてくれるタイプのものだ。 港から帰ってくる間に、運転をアオイに替わって貰ってから探していたらしい。「こんにちわ」『你好(ニーハオ)』 流暢な中国語が携帯電話から返ってきた。話し合いが捗りそうな予感がしていた。「俺の片言中国語よりはマシだな……」 アプリの翻訳の様子を見たディミトリは、そう呟くと早速シンイェンに質問してみた。『これなら何とかいけるかもしれない……』『貴方の下手な中国語よりマシね』『それ酷い……』『冗談。 助けてくれてありがとう』『どう致しまして……』 シンイェンの表情が明るくなった。意思の疎通が出来るのが嬉しいのだろう。(すげぇ…… 便利な物だな……) ディミトリは技術の進歩には凄いものがあると感じてしまっていた。 所々、おかしい翻訳も有る気がするが、それでも何も出来ない寄りは遥かにマシだ。『貴方は日本の兵隊で特殊部隊か何かなの?』『いや、日本の中学生で帰宅部隊に所属している』『変なの…… クスクス』 シンイェンがケラケラと笑いだした。アオイやアカリも笑っていた。『シンイェンは何処に住んでいるの?』『香港』『親の商売は?』『マフィア』『え?』 ディミトリは思わず携帯を見返した。翻訳アプリが間違えているのではないかと思ったからだ。『マフィアだよ? 日本の盗品を中国で売っていると言っていた』 彼女自身は貿易商
『ところで何で日本にいるんだ?』 シンイェンは香港に住んで居たはずだ。ところが日本の港に停めてある船の中に居たのが解せなかったのだ。『日本の遊園地に遊びに来ていたのよ』『ああ、それでなのか……』 日本に来て気が緩んだ所を拐ったのだろう。 普通、この手の人質は大事にされる物だ。だが、彼女がぞんざいに扱われていたのを見ると、ロシア系の連中は誘拐とは無関係だったのだろう。 帰りの道中で他にも拐われた者は居ないと言っていた。シンイェンが予定外であったのだ。『君を親元に返したいんだが…… どうすれば良いの?』『電話を掛けさせて頂戴』『それは構わないが公衆電話を使ってくれ』『どうして?』『携帯電話は位置の特定が可能なんだよ』『……』『君のお父さんが警察に通報していると、俺達は面倒な立ち場になってしまうんだ』『……』『お兄さんもお姉さんも警察とは仲が悪いんだよ』『……』 シンイェンは部屋に居た三人を順番に見つめた。 香港でもそうだが、一般市民が銃を持っていることなど無い。しかも、彼らはこの手の事に手慣れているようだ。 彼女の拙い経験からも、普通の市民では無いことは明白だった。『分かった』 シンイェンは返事をした。彼らが敵では無いと理解できているだった。 何よりも先の見えない監禁生活から開放してくれた。彼女にとっては彼らは英雄なのだ。 アカリとアオイはシンイェンの服を調達しに出掛けていった。 ディミトリは彼女を連れて近くにあるコンビニやって来た。近所で公衆電話があるのはコンビニだけなのだ。 シンイェンに小銭を渡して国際電話の掛け方を教えてあげた。(公衆電話で国際電話が掛けられるとは知らなかったぜ……) 実を言うとアオイに聞くまで知らなかったのだ。百円単位なのでテレホンカードを用意しないといけないのが面倒だった。『済まないが録音させて貰うよ。 それから余り俺たちのことを詳しく話さないで欲しいんだ……』 電話する彼女の会話を録音する事にしていた。ヤバそうだったら逃げる為だ。 ディミトリは中国語が片言で分かると言っても無理がある。詳しい部分は後で翻訳ソフトで聞こうと考えていたのだ。『わかったわ……』 シンイェンは教えられた通りに電話を掛けた。相手は直ぐに出たようだ。ディミトリはそっぽを向いて聞かない振りをしていた。 電話
『なんて事だ…… ツライ目に合わせて申し訳ない。 日本なら大丈夫だと思ってたんだよ』『秦天佑(シン・チンヨウ)はお父さんが約束を守らないのが悪いと言ってた……』『約束も何も分前の増額を彼らが勝手に決めたんだよ。 言うことを聞くわけにはいかなかったんだ……』『……』『その後、直ぐに私を誘拐した犯人たちはロシア人たちに捕まったの』 シンイェンたちを連れ去って、自分たちのアジトに連れて行ったらしい。そこから香港に脅迫電話を掛けていたのだろう。 誤算は自分たちが誘拐されるターゲットにされてしまっていた事だ。 シンイェンを拐った事を知らなかったロシア人たちが、アジトを襲撃して全員を拐ったのだ。『それで連絡が付かなくなったのか!』 父親は交渉の最中に連絡が取れなくなり焦っていたようだった。『ええ。 彼らのリーダー以外は直ぐに殺されたみたい』『誘拐犯が誘拐されるなんて思いつきもしなかった……』『赤毛のロシア人だった……』『なんて名前の奴だ?』『皆はチャイカって呼んでいた』『チャイコフスキーか!』『やっぱり、知り合いなの?』 どうやら父親も知っているようだ。彼が自分の事を知っている風だったので不思議だったらしい。『私を助けてくれた日本の少年の事も知っていたみたいよ』『日本の少年?』『ロシア人は、その日本の少年の事を聞き出す為にリーダーを拷問に掛けていた』『見せられたのか!』『ええ、私の目の前で彼が死ぬまで続けていた』 誘拐犯を誘拐した理由はクラックコアの真相を聞き出す為だったらしい。 彼女に拷問の様子を見せたのはチャイカの残虐な性癖だ。さぞや満足したに違いない。 対峙した時に自信たっぷりだったのは、リーダーから詳細を聞き出していたからだ。 片言の中国語でも何が行われたのかディミトリにも理解は出来た。『その日本の少年がお前を助けてくれたのか……』『ええ、やたらと闘いに慣れている日本の少年』『兵士とか警察じゃなくて?』『私の代わりに変態どもを皆殺しにしてくれたわ』 シンイェンは憮然として答えた。 彼女が泣かなかった理由が理解できた。子供には過酷な行為を強いられた来たのだ。 心を閉ざして感情を殺すしか術が無かったのだ。『変態どもって…… なんかされたのか?』『……お尻が気持ち悪くてたまらない……』『……』 言葉に
コンビニからの帰り道。 シンイェンはコンビニで買って貰ったお菓子が気になるようだ。袋の中を時々眺めてニコニコしている。 きっと、身内と連絡が取れて気が緩み始めたに違いない。スキップしながら歩いているのが証拠だ。 一方、ディミトリは録音しておいたシンイェン親子の会話を翻訳ソフトを通して聞き直していた。 シンイェンの父親が警察に届けているか気になっていたからだ。 だが、父親は届け出はしなかったようだ。話の内容からして父親は黒社会と深い繋がりがあるらしい。 彼からすれば警察に届けても、まともに聞いて貰えないと考えたのかも知れない。(まあ、その辺はどうでも良い……) 娘の無事を喜んでいるようなので、直ぐに敵に廻るとは考え難かったのだ。(チャイカの本名を父親は知っているのか……) シンイェンの父親はチャイカを知っていた。ならばディミトリの事も知っているかもしれない。 その辺は彼に逢って話を聞き出そうと考えていた。ひょっとしたらクラックコアの詳しい話を聞ける可能性があるのだった。(チャイカは裏社会とコネ付けるのが上手いからな) きっと、同じ様な匂いに惹かれ合うんだろうと考え、ディミトリは鼻で笑ってしまった。 自分もそうだからだ。(つまり俺は中国の黒社会でも人気者って事なんだな……) そう考えると笑いがこみ上げて来てしまった。 世界中の犯罪組織を敵に回しているかも知れない状況に笑うしか無いと思っているのだ。 クスクス笑いながら歩いているとシンイェンが不思議そうな顔で見ていた。 アオイのマンションに到着すると、アオイとアカリの姉妹は先に帰っていた。そして、シンイェンを別室に連れ込み『カワイー』と言いながらシンイェンを着替えさせている。別室に運びきれ無かった着替えが部屋の大部分を占めていた。 ディミトリは所在なさげに居間で待たされた。その間も翻訳されたシンイェン親子の会話をチェックしていた。 着替えが済んで再び現れた彼女は愛らしい少女に変身していた。『おまえ かわいい』 ディミトリのお世辞にシンイェンは顔を赤くして照れていた。 シンイェンと父親との電話の内容をアオイたちに伝えた。「シンイェンのお父さんが明日には香港から来日するそうだ」「そうなの?」「ああ、その時に彼女を父親に渡してお終いだ」「良かったね」 姉妹は口々にシンイ
ディミトリの自宅。 ディミトリはアカリに車で送ってもらった。荷物が多かったせいだ。 自室に戻ったディミトリは、荷物の中身を勉強机の上に広げてみた。 モロモフ号で取得した武器はAK-47と弾薬。AK-47は結構使い込まれているのか全体的にサビが目立っていた。 手榴弾も一つあったので持ってきたが年代物だ。調べてみるとベトナム戦争時に米軍が使っていたマークⅡという奴みたいだ。(ちゃんと爆発するのか?) 自分が生まれる前の年代物を手にした時に出た感想だった。肝心な時に機能しない武器が、一番厄介な事は知っている。 傭兵時代にもRPGを打ち込んだら、爆発せずに標的の建屋を通り抜けてしまった事があった。もちろん、作戦は失敗で激怒した敵に追い回された経験があったのだ。(まあ、いいや。 脅しぐらいには使えるだろう) 手榴弾をバッグの中にしまい直した。 次はAK-47を分解掃除を始めた。元々、部品数が少なく手入れが容易なのがウリの武器だ。 装薬の燃えカスやら埃やらを拭い去って、グリースを塗ってやると見違えるように……には成らなかったが前よりはマシな状態にはなった。弾倉のガタツキが無くなったのが有り難いと思った。 サプレッサーはモデルガン用のを参考にして作成するつもりだ。(インターネットって便利だな……) 検索すると3Dモデルが出てきたのはビックリしたものだ。 アオイから好物の現金を返してもらった。半分近くはアオイ姉妹に上げたが、それでも一千万ちょいは手元に残っている。(よし、これで渡航費用は賄えるな……) これらを何処に隠すかを考える必要がある。また、燃えないゴミの日に出されたら敵わない。 後は中華の連中をどうにかしないといけない。彼らがクラックコアの施術をしたのは間違いなさそうだからだ。 元の身体に戻る方法も当然知っているに違いないからだ。 シンイェンに連れ込まれた場所が分からないかと聞いてみた。彼女は一旦中華系のアジトに連れ込まれて、そこからチャイカたちに捕まっていたのだ。(具体的な場所は知らないと言っていたな……) 日本には頻繁に来るらしいが、土地勘などは無いので分からないと言っていたのだ。 だが、潮の香りがしていたと言う事と、沢山の荷物があって天井が高かったと言っていた。 おそらくは倉庫であろう。(子供に期待しすぎてもしょうが
鶴ケ崎博士の研究所。 研究所と言っても洋風の屋敷だった。都内から少し離れた都市に広めの一軒家だ。 鶴ケ崎博士はこの屋敷を住居兼研究所としているのだった。 主要な駅から離れた場所にある屋敷の周りは、人通りも無く街灯だけが唯一の明かりであった。 そんな閑散とした通りを白い自動車がゆっくりと通り過ぎていく。まるで、屋敷の中を伺うかのような動きには、野良猫ですら警戒の目を向けている。 屋敷を通り過ぎ、街灯の明かりが途切れる辺りで白い車は停車した。車を運転していた人物は、車のエンジンを切って静寂の中に何かしらの動きが無いかを探るように辺りを伺っていた。 運転手は黒ずくめの格好をしていた。だが、胸の膨らみは隠せない。女性であろう事は外観で判別が出来た。 彼女は壁を軽々と乗り越え、屋敷の外壁に張り付いた。そして、周りを伺う素振りも見せずに台所の扉に取り付いた。 玄関に向かわなかったのは防犯装置が付いているのを知っているからだろう。 台所に扉を自前の解錠用キットで開けた彼女は台所に有った防犯装置を解除した。こうすると家人が家に居る事になって、警備会社に通報が行かなくなるのだ。彼女は防犯装置に詳しいのだろう。鮮やかな手口であった。 博士は独身だったのか、研究所の中は無人であった。 屋敷に侵入できた彼女は迷わずに二階に向かっていった。二階に博士の研究室があるからだ。 室内に入って中を見回す。様々な専門書が壁一面を埋め尽くしている。 部屋の中央の窓よりの部分に机があった。机の上を懐中電灯で照らし出す。机の上にはノートパソコンが一台あった。 ノートパソコンを開けて中を見たが、目的の物が見つからなかったのかため息を付いていた。そして、机の上を懐中電灯で照らして何かを探している。 やがて、引き出しを開けると外付けのハードディスクがあった。表にガムテープが貼られていて、マジックで『Q-UCA』と乱暴に書かれている。「……」 彼女はそれを手にとってシゲシゲと眺めた。やがて、彼女はそれを自分のバッグの中にしまい込んだ。目的のものを見つけたのだ。 すると、部屋の片隅で何か物音がして部屋の明かりが点いた。「!」 彼女は物音がした方角に厳しい目を向け身構えた。「来ると思ってたよ……」 暗闇から一人の狐の覆面を被った男が進み出て声を掛けて来た。彼女はいきなりの展
『ワカモリさん。 どうしましたか?』『急で申し訳ないけど、偽造パスポートを都合して貰えないか?』『ワカモリさんは日本人ですから、日本のパスポートをお持ちになった方が色々と捗りますよ?』 日本のパスポートの信頼度は高い。他の国のパスポートでは入国管理の時に念入りに質問されるが、日本のパスポートの場合には簡単な質問のみの場合が多いのだ。 スネに傷を持つ犯罪者たちには垂涎の的なのだ。『ワカモリのパスポートは使えないんですよ』『え?』『色々な方面に人気者なんでね』『ええ確かに……』 ケリアンが苦笑を漏らしていた。ディミトリが言う人気者の意味を良く知っているからだ。 公安警察の剣崎が自ら乗り出してきた以上は、ワカモリタダヤスは逃亡防止の意味で手配されていると考えていた。『分かりました。 少しお時間をください』『どの位かかりますか?』『一ヶ月……』 ディミトリが依頼しているのは偽造パスポートだ。作成するには色々と下準備が必要なものだ。それには時間もお金もかかる物なのだ。『もう少し早くお願いします。 厄介な所に目を付けられているんですよ』『警察ですか?』『公安の方ですね』『分かりました……』 中国にも公安警察は存在する。そこは欧米などの諜報機関に相当する部署だ。ディミトリが傭兵だった時にも、噂話は良く耳にしていたものだ。 荒っぽい仕事をするので海外での評判は悪かったのだ。 日本には諜報機関は存在しない事になっている。だが、日本の公安警察がそれに相当する組織と見なされていた。 もっとも、国内に居る犯罪組織や日本に敵対する組織の監視が主な任務で、海外の諜報機関のように非合法活動で工作などしたりはしない事にはなっている。だが、表があれば裏が有るように、ディミトリはそんな話は信用していなかった。 ディミトリが『公安警察』に目を付けられていると聞いたケリアンは、ディミトリが急ぐ理由が分かったようだった。『では、二週間位見ておいてください』 少し考えていたのか間をあけてケリアンが返事してきた。 偽造パスポートが出来たら部下に届けさせるとも言っていた。ケリアンは香港に居るらしい。日本国内だと身の危険を感じるのだそうだ。『しかし、人気者だとしたら日本から出国する際に、身元の照会でバレるかも知れませんよ?』 日本には顔認証による人物照会を行
自宅。 ディミトリは病院から帰宅してから部屋に籠もったままだった。 ベッドに転がって天井を睨みつけながらこれからの事を考えていた。 先日の剣崎とのやり取りで気になったことがあったのだ。 一番はヘリコプターを操縦する姿を撮影されていた事だ。 これは、常に張り付きで見張られていた事を示している。きっと、ジャンの倉庫に連れ込まれてひと暴れしたのも知っているのだろう。『人を撃った銃をいつまでも持っているもんじゃないよ』 剣崎はそう言ってディミトリが持つ銃を持っていった。(そう言えば、あれって弾が残っていなかったじゃないか……) 鞄の底から銃を見つけた時に、弾倉を確認していたのを思い出していた。その後、剣崎がもったいぶって登場したのだ。 あれは狙撃手が銃を手に持ったのを確認していたのだろう。つまり、ディミトリが銃と弾倉を触ったのを監視していたのだ。(指紋付きの銃を持っていかれたんじゃ言い訳が出来ねぇじゃねぇか……) 恐らく、倉庫からジャンの手下の遺体を回収済みだろう。遺体の幾つかはあの銃で撃ったものだ。線条痕と指紋付きの銃を持っていかれたらディミトリが犯人だと証明できてしまう。(こっちの弱みを握って何をさせるするつもりなんだよ……) 剣崎は『公安警察』だと言っていた。自分の知識の範囲内では『日本の諜報機関』との認識だった。(俺の家を見張っていたのも剣崎だったのかも知れないな……) オレオレ詐欺グループのアジトを襲った時に、何故か警察のガサ入れが有った。あれは剣崎の指示でやらせたのかも知れない。 それにパチンコ店の駐車場で暴れた時も、店の防犯カメラがディミトリを映していないも不思議だった。それも、剣崎が『故障』させた可能性が高い。ディミトリの存在を秘匿して置きたいのだろう。(金には興味無さげだったな……) 何度目かの寝返りをうって剣崎との会話を思い出していた。一兆円の金を『端金』と言っていた。 本心かどうかは不明だが、普通の奴とは違う考えを持っているようだ。(まあ、確かに人を殺めるのに躊躇いが無い奴は、手駒にしておくと便利だわな……) 便利な使い捨ての駒が手に入ったと剣崎は考えているのかも知れない。(今どき殺し屋でも無いだろうに……) どっちにしろ、まともに扱われるとは思えない。(人の目を気にしながら歩きたく無いもんだな……)
「一つは中国系で日本のチャイニーズマフィアと繋がりがある……」(ジャンの所か……)「一つはロシア系で日本の半グレたちと繋がりがある……」(チャイカの所だな……) ディミトリは何も反論せずに剣崎の話を聞いていた。「全員、君が握っている情報に彼らは興味があるそうなんだがな?」「さあ、何の話だかね……」 麻薬密売組織の資金の事であるのは分かってはいるがトボけた。どう答えても面倒事になるのは分かっているからだ。「少なくとも君を巡って二つの組織が動いている」「中年のおっさんにモテるんだよ。 俺は……」「まあ、特殊な性癖を持つ人には魅力的なのかも知れないが私には分からんよ」「そいつらが探しているのが俺だと言いたいんで?」「他に誰がいるんだ?」 剣崎はディミトリの話など興味ないように続けた。「東京の端っこに住んでる中学生が握ってる情報なんて、近所のゲーセンに入っている機種は何かぐらいだぜ?」「それはどうかね……」「俺はその辺に転がっている平凡な中学生の小僧ですよ?」「それは君にしか分からない事かもしれないね…… 若森くん」「あんた……」「前に来た刑事たちとは違う匂いがするね……」「君と同類の匂いでもするのかい?」「……」「君の言う平凡な中学生ってのは、ヘリコプターを操縦できるのかい?」 剣崎が写真を一枚投げて寄越す。ディミトリは受け取らずに落ちるに任せた。足元に白黒写真が落ちた。 そこにはヘリコプターを操縦する若森忠恭が写り込んでいた。「ヘリの操縦の特殊性は理解しているつもりだ。 機体を五センチ浮かせて安定させるのに半年は掛かるんだそうだ」「……」「最近の中学生はヘリの操縦までするのかね?」「保健体育で習ったのさ」 ディミトリは負けじと言い返した。「それともディミトリ・ゴヴァノフと呼んだ方が早いかな?」「……」 ディミトリの眼付が険しくなった。部屋中にディミトリの殺意が充満していくようだ。「あんたも麻薬組織の金が目当てか?」「……」 ディミトリは銃を引き抜き剣崎に向けた。もちろん殺すつもりだった。だが、引き金を引こうとした時にある事に気がついた。 オレンジ色のドットポイントが剣崎の額に灯っているのだ。だが、それは直ぐに消えた。「クソがっ……」 ディミトリの経験上、ドットポイントが意味するのは一つだけだ。
大川病院の一室。 ディミトリは退院をする為に起き上がっていた。安静にしていれば肩の骨は繋がるだろうとの診断がおりたのだ。 骨にヒビが入った程度の怪我では長期は入院させて貰えないのだ。他の重篤な患者用に退院させられる。 退院の為に荷物づくりをしているのだ。左手が効かないので右手だけでやっている。 着替えなどを鞄に入れていると、その着替えの入っていた鞄の底に銃があった。(え? 何故?) 銃を手にとってみるとジャンの倉庫から脱出する時に使っていたトカレフだ。弾倉を抜き出して確認してみると、中に弾は残っていなかった。(一緒に持ってきた?) 話を聞いた限りでは、身一つで病院の応急処置室に放置されていたと聞いている。それにこんな物騒な物を持っていたら、警察の方で問題視されているはずだ。(アオイが置いて行ったのかな……) ディミトリが入院している間にアオイはやって来て無い。(病室に自分は来たというサイン?)(いやいやいや…… 普通に書き置きで良いだろ……) これが見つかると拙い立場に立たされてしまう。そういう事を思いつかない女では無いはずだとディミトリは訝しんでいた。(そう言えばお婆ちゃんが玩具で遊ぶのも程々にしろと言っていたような気がする……) 祖母はコレを見て、孫の部屋にあったモデルガンを思い出したに違いない。 そんな事を色々考えていると病室の扉がノックされた。ディミトリは慌ててトカレフを背中に隠した。日課のようにやって来る刑事たちだと思ったのだ。「どうぞ」 返事をすると男が一人入って来た。だが、男は毎日やって来る刑事とは違う男だった。「やあ、若森くん…… 君に事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」「いつもの刑事さんたちじゃ無いんですね……」「ああ、所属先が違うもんでね」 ディミトリは警戒しはじめた。刑事たちの眼付は鋭いが、この男からは違った雰囲気を感じ取ったのだ。 そんなディミトリの思惑を無視するかのように質問をし続けた。「君が道路に飛び出した訳を聞きたくてね」「ちょっと、道路を渡ろうとしただけですよ」「そう…… 君が事故に巻き込まれるちょっと前に、パチンコ店に車が飛び込んで来てね」「はあ……」「運転していた男の背格好が君にソックリなんだよ」「僕じゃ無いですよ」「パチンコ店に飛び込んで来た車は、パチンコ店に併
十代の頃に自動車の窃盗で捕まった事がある。その時に、相手の刑事に嘘を並べ立てたがどれも通用しなかった。 最初から全部バレていて全て反論されて自白させられたのだ。 自分では整合性を合わせているつもりでも警察には通用しない。何しろ悪知恵の回る嘘つき相手の商売だ。小悪党の浅知恵など通用しないのだ。 刑事たちを病室の入り口まで見送った祖母は、戻ってくるなりディミトリに尋ねてきた。「タダヤス…… お前は何をしてるんだい?」 祖母はディミトリが無断外泊していた事は言わなかったようだ。ふらりと居なくなったかと思えば、車に刎ねられて病院に入院している。何を考えているのか心配でしょうがないのだろう。 自分はどうやって病院に来たのかと尋ねたら、緊急病室のベッドの上にいつの間にか居たのだそうだ。 幸いタダヤスの顔を知っている看護師が、若森忠恭の事を思い出してくれたらしい。彼は長いこと入院していたのだ。 傷だらけでベッドの上に放り出されていたので騒動になったのも頷ける。それで警察が呼ばれたらしかった。 もちろん、祖母はディミトリの本性は知らない。タダヤスの脳に人工的にディミトリィの魂が埋め込まれているなどと知らせるつもりは無いのだ。それは彼女の為にならないだろう。「ん……」 不意に頭痛がディミトリを襲った。彼の顔がたちまち曇っていった。「痛むのかい?」「ああ、少し横になるよ……」 そう言ってベッドに横になった。この偏頭痛は副作用的なものであるらしい。 無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化する原因になっていると予測している。脳の活動が活発になりすぎているのだろう。やがて脳が肥大化しすぎて機能停止するとも博士が言っていたような記憶がある。(それって、結構ヤバイ状態じゃないのか?) ディミトリは頭痛の理由が分かり少し焦りを覚えた。今のところはディミトリの人格が現れているに過ぎない。外見的にはタダヤスである。 ディミトリを追いかけ回す連中も事情は知っているのだろう。だから、焦っているのかも知れないとディミトリは思った。 目的はディミトリが持っている資産だ。 それは、中南米の某銀行に預けられている。百億ドル(約一兆円)にもなる金だ。 だから、魂が消えてしまう前にお宝の在り処を聞き出す必要があるのだ。(連中が躍起になって俺を追いかけ回す
看護師が出ていくのと入れ替えで祖母が入ってきた。ディミトリが起き上がって居たのにビックリしたようだ。 それでも心配だったのか、優しく声を掛けてきた。「タダヤス…… 大丈夫かい?」「大丈夫」「本当に男の子はヤンチャで困るわねぇ」「心配かけてゴメンナサイ……」 ディミトリは祖母には素直になるのだ。大好きな祖母に頭を撫でられて泣きそうになってしまった。 果たして祖母にどう説明したものかと考えていたら、病室のドアがノックされてどやどやと男たちが入ってきた。 一人は白衣を着ていたので医師だと分かったが、残りの男二人はスーツを着ていた。しかも眼付が鋭い。(こういう眼付の悪いのは刑事と相場は決まってるな……) 医者は頭痛はするかとか、吐き気は無いかとか質問していた。「こちらは所轄署の刑事さんたちだ」 そう刑事たちを紹介した。車の事故が通報されて、刎ねられた若者が連れ去られたと手配されていたのだ。 捜査していると似たような背格好の男が病院に入院しているので調べに来たらしい。「病状が安定してませんので、質問は手短にお願いしますね?」「はい……」 刑事たちが医者に頭を下げると、それが合図だったかのように看護師を従えて出ていった。「やあ、事故の事を詳しく聞かせて欲しいんだよ……」 ディミトリの方に向き直った刑事たちが尋ねて来た。「道路を渡ろうとしたら車に刎ねられたんです」「横断歩道じゃない所だよね?」「ええ…… 信号機の所まで行くと時間が掛かりそうだったので……」 ここで刑事たちは何事か耳打ちをしていた。そして、今の話をメモ書きするする振りをしながら質問を重ねて来た。「誰かに追いかけられていたと証言する人が居るんだけどね?」「いえ、そんな事無いですよ」 やはり何人かに目撃されて居たようだ。まあ、パチンコ店に車で突っ込んだのだからしょうが無いことだろう。「当日、パチンコ店に車が激突してたんだが、運転していたのは君にソックリだと言われているんだけどね?」「車の免許は持ってないですよ?」「目撃者の証言する年格好が同じに見えるだけどね?」「さあ、そう言われてもね…… 見ての通り何処にでも居る小僧ですよ?」 パチンコ店には至る所に防犯カメラが有るはずだ。それにディミトリが映っている筈なのだが刑事たちの歯切れが悪い。 ひょっとしたら、
(まあ、上書きされるのだから消えてしまうのだろうな……) 一家は全滅するわ脳は乗っ取られるわで、ワカモリタダヤスは地球上でもっともツイテナイ奴だったようだ。(しかし、見ず知らずの小僧に上書き保存されているのか……) 何だかパチモンのUSBメモリーに保存された、違法ソフトの気分に成ってきたのだった。「最近、偏頭痛が酷くないかね?」「ああ、失神してしまうぐらいに手酷いのが襲って来るよ」「その偏頭痛は副作用的なものだな」「……」「他人の脳に無理やり書き込んでいるので、脳の処理が追いつかず肥大化しはじめとるんじゃ」「すまない。 人間に優しい言葉にしてくれ……」「脳の活動が活発になりすぎている。 なら良いか?」「ああ……」「やがて脳が肥大化しすぎて機能停止してしまうかも知れんな…… ふぇっふぇっふぇ……」 博士がそう言って力無く笑い声を出した。「そうか…… じゃあ、元に戻るには自分の身体が必要と言うことだな?」「……」 ディミトリは相手に書き込みが出来るのなら、元に戻すことも出来るのではないかと考えたのだ。 それで博士に質問してみたのだが彼は俯いて黙ったままだった。「?」「……」 ディミトリは振り返って博士を見た。項垂れている。明らかに様子がおかしい。「博士?」「……」 アオイが博士の身体を揺さぶってみたが反応は無い。 彼女は博士の首に指を当てて呟いた。「死んでるみたい……」 博士は椅子に座ったまま絶命していた。シートの下に血溜まりが見えている。 ヘリコプターが飛ぶ時の銃撃戦の弾丸が腹部に命中していたのだった。「くそっ、肝心なことを言わずに……」 一番聞きたかった所を言わずに博士は逝ってしまったようだ。 ディミトリの自分探しの旅は終わりそうに無かった。見知った天井。(うぅぅぅ…… ここはどこだ?) ディミトリは眩しそうに目を開けた。眩しいのは自分の頭上にある蛍光灯のせいのようだ。 だが、視界が定まらないのかグルグルと部屋が回っているような感覚に襲われている。いつもの既視感である。(くそ…… またかよ……) どうやら、お馴染みの大川病院であるようだ。 ディミトリはジャンたちが使っている産業廃棄物処理場にヘリコプターを着陸させた。ここなら無人であると思っていたのだが、考えていた通りに誰も居なかった。ヘリコ
ヘリコプターの中。 ディミトリたちを載せたヘリコプターは川沿いに飛行を続けていた。普段、見慣れないヘリコプターが低空飛行をする様子を、川沿いの人たちは驚きの顔を向けていた。 操縦席にディミトリ。後ろの席に博士とアオイが乗っていた。「なぁ博士。 クッラクコアって手術はどうやるんだ?」 ディミトリが後部座席に座っている博士に質問をした。何か話をして気を紛らわさないと痛みに負けそうだからだ。「簡単に言えば、人の脳に他人の記憶を書き込む手術のことだ」 博士が素っ気無く答えた。アオイが吃驚したような表情を浮かべていた。「そんな事を出来るわけが無いだろ」 ディミトリは笑いながら答えた。普通に考えて滑稽な話だからだ。「じゃあ、今のお前は何なんだ?」「……」 そう言われるとディミトリも困ってしまった。何しろ自分は東洋の見知らぬ少年の中に居るからだ。 魂とは何かと言われても哲学や医学の素養が無いディミトリには無理な話だ。「世間が知っている技術では出来ないというだけの一つの話に過ぎないんじゃよ」 そう言って博士はクックックッと笑った。 どうやら博士は他にも色々と問題のありそうな手術をした経験がありそうだ。(ドローンの盗聴装置の話みたいだな……) ロシアのGRUに居た友人の話で、ドローンを使った盗聴装置の話を聞いたことがある。 ドローンからレーザー光線を出し、それがガラスに当たった振幅を解析する事で、部屋の中の会話を盗み聴きするヤツだ。既に実用化されていて、今は人工衛星を使っての同種の装置を開発しているのだそうだ。 これ一つ取っても科学技術の進歩の凄まじさが伺えるようだ。(犬に埋め込んだ盗聴装置もあったしな……) 生物の代謝に伴うエネルギーを電源に使うタイプの盗聴装置だ。これだと長い期間動作が可能になる。 これが対人間相手の技術なら、その進歩はもっと凄いことになっていそうだとディミトリは思った。「科学の世界には、表に出てない技術が山のように有るもんだよ」「クラックコアもその一つなのか?」「もちろんだとも」 人間の記憶というのは神経細胞のシナプスに化学変化として蓄えられている。その神経細胞を構成するニューロンの回路としてネットワーク化される。無限とも言える変化の連続を、人間は記憶と呼んでいるのだ。 そして、記憶と記憶を結びつける行為を